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厳罰化

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主にひき逃げなどの交通事故被害者の遺族は、よく裁判などにあたって
「犯人には厳罰を。今の法制度では軽すぎる」
という主張をする。遺族が犯人に対し望むことといえばこのぐらいしかないし、その主張をすること自体はよく気持ちも分かるが、単純な厳罰化はさらなる悲劇を生む。

昨今のひき逃げはそれを反映した一部かもしれない。単純に厳罰化されたのみであれば、犯人にとっては逃げ得になってしまう。「轢いてしまったけどきっと軽傷だ、自分が逃げても問題ない」という心理も相まって、なおさら降りて救護義務を果たそうとは思わなくなる。厳罰があるから逃げるのか、逃げるから厳罰になるのか。

単純に「事故を起こした場合に厳罰化」というのではなく、もっと総合的な対策が必要ではなかろうかという話。

不作為

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医師が多い東京ですら受け入れ拒否が続発する
というのはちょっと認識が違うように思える。

医師が多いところでは拒否する方が理にかなっているし、少ないところでは受け入れる方が理にかなっている。

医師が少ないところでは、受け入れを拒否すれば患者は他に行くところがなくなる。事実上運ばれる前から患者の生死はその少ない医師にゆだねられており、受け入れを拒否すれば治療が必要なのにしなかったという不作為に問われかねない。

一方、医師が多いところでは、他に治療できるであろう医師が他にたくさんいるという(事実はともかく)想定がある。だから、本来受け入れて十分な治療が出来ない状態であるにもかかわらず受け入れてしまい、そして予想通りに十分な治療が出来なかったために重大な結果を引き起こしてしまった場合、患者を自分の支配領域内においたことによって保護責任が発生するため、その責任を負うことになる。だから、他の病院という選択肢がある以上、人道的な面はともかくとしてわざわざ様々なリスクを背負った患者を余裕がない中で引き受ける理由がない。

これを解決するためには、どんな状況でも一時的に受け入れる管制塔のような施設を作るか、もしくは劣悪な医療環境で受け入れられても医者や病院の責任を追及しないとするか。あるいは、医療体制をもっと余裕のあるものにするか。何にしろ対策がとられているものだろうと思いますが。

十二人の怒れる男

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1957年の米国映画(白黒)だそうです。
米国の陪審制度を題材にした映画なのですが、名作だということで興味を持っています。

だいぶ前の話ですが、日本の裁判員制度が始まるにあたって、この映画が話題に出るようになったのが興味を持つようになったきっかけの一端ではありますが、それ以外にも議論の引っ張り方や、リーダーシップの取り方、交渉の駆け引き、心理的な移り変わりなど、人が人と話をする際に問題点として意識する、あらゆる要素が詰め込まれている、らしいです。だからこそ、ずっと同じ部屋でただ12人が喋っているだけの映画にもかかわらず、名作と評価されているとのこと。
最近、ロシアでリメイクされるという話を新聞で読み、思い出したのでありました。

一事不再理

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ロス事件の裁判で問題になっています。

簡単に言えば「一度司法の判断を受けたものは、再び同じものについて司法の判断を受けることはない」といったような感じです。この事件は刑事裁判ですが、刑法には「罪数論」という分野(?)があり、どう罪をカウントするか(そしてそれに対しどう罰を与えていくか)について、争いのある部分も少なくありません。
今回の場合、更にそれに加えて日米の二つの司法権の関係も問題になっています。従う法律が違えば罪や罰も変わってくるわけで、どの罪がどの行為を罰するものなのかということは厳密な点ではずれがあります。

面白いというかこれは泥沼だろうなと思ったのは、裁判の証人として法学教授が出てきた点です。学説の対立など山のようにあり、今も結論が出ていないものも大量にあるのに、いくらこれが証拠ですと学者が言ってもただ裁判を学説の争いの場にするだけだろうと思いました。

短い言葉の著作権

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具体的には
「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」と
「時間は夢を裏切らない、夢も時間を裏切ってはならない」のこと。

ここで問題になるのは創作性でありますが、これに関しては判例があります。
東京地裁平成7年12月18日判決「ラストメッセージin最終号」事件
「創作的に表現したものというためには、当該作品が、厳密な意味で、独創性の発揮されたものであることは必要でないが、作成者の何らかの個性の表現されたものであることが必要である。文章表現に係る作品において、ごく短いものや表現形式に制約があり、他の表現が想定できない場合や、表現が平凡、かつありふれたものである場合には、筆者の個性が現れていないものとして、創作的な表現であると解することは出来ない」

その控訴審においては、
「各作成者が独自に工夫してもある程度相互に似通った発想や表現が生じうる必然性と可能性を有している」状況が(判例においては、古語の語呂合わせで)存在することを認めています。

さて今回の事例ですが、結論から言えばこの状況においてはありふれた表現であるということになると思います。時間と夢が同一の話題に出てくる場面はそれほど珍しいものでもないでしょう。夢を叶えるのに時間がかかった、など。また、擬人化も、特に詩的な表現が必要とされる場面では誰でも思いつきうる手法です。裏切るという言葉も、日常用語として違和感あるものではなく、これらすべての表現が同様に用いられたとしても、短く詩的に言い表すためにはこういわざるを得ないのではないでしょうか。

仮に創作性が認められ、著作権が認められるとすると、こうした短い言葉を考えて世に出そうとするたびに似たような言葉が出ていないかを調査する必要が出てくるわけですが、一つのお話の中にどれだけそういった詩的な表現が出てくるかを考えると・・・
今回の場合は、「座右の銘として公に発表し続けてきた」ということで特別扱いなのでしょうか。その業界の人にはよく知られたものだったのでしょうかね。「知らなかったこと」を証明するのは難しいです。